グイーネの眼差しから(非エロ)


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 *ネタバレ

 最終章の内容まで知っている人向け。
 もしグイーネ視点から物語を追ったらという想像です。




     ***




 産場へ向かう馬車は無視できない。
 特にこの道を通って行くのは、武国ヤマトから連れ去られた女性であり、彼女達からは強力な魔族が生まれてしまう。
 ……もうすぐだ。
 森の中から、生い茂る草花の影に身を隠し、耳元を飛び回る羽虫や、肌を這う蟻など気にも留めずに、グイーネは全ての集中力をその方角に向けていた。緑色の葉が詰まった茂みの隙間から、わずかに見える土道まで、しかるべきタイミングまで近づいてくる瞬間を待ちながら、剣の柄に一本ずつ指を絡める。
 馬の蹄が地面を叩き、車輪が石くれの凹凸を通り抜けてくる馬車の音が、もうとっくに聞こえている。

 ――今だ!

 風が吹き抜けるごとき影として、瞬足で飛び出すグイーネは、あまりにも自然と馬車に飛びついて、運転手だった魔族の首にその刃を通していた。
「何事だ!」
「一体どうした!」
 魔族の反応も早い。
 運転手を殺した首が、地面に転がるよりも遥かに早く、護衛である他の魔族の面々が飛び出してはグイーネを標的と捉えていた。翼とかき爪を持つ種族の三匹は、その翼膜で一斉に風を叩いて一直線に、グイーネの腸を引き裂くために襲い掛かった。
 殺す気で来ていることがよくわかる。
 人間の命を何とも思わず、玩具の感覚で弄ぶ者達の眼は、たかが下等な種族のくせに生意気だと、グイーネに魔族と人間の力関係を教えたがっている。そのためなら肉の奥まで爪を刺し込み、まるで土でも掘り返すかのように臓物を抉り出そうというわけだ。
 だが、もうわかる。
 度重なる戦いの末、これまで数多くの魔族を討ってきたグイーネには、目の前にいる三匹がこれからどう動き、どのように仕掛けてくるのか、先の先にかけてのイメージがありありと浮かんでいた。
 こう来るに違いない、だからこちらはこう動けばいい。
 そういった思考の数々が、流れ水のように指先まで伝っていき、あたかも自分の取るべき動作を事前に知っているごとき軽やかさで、爪という爪の応酬をかわしていた。足の素早い動きで地面を蹴り、適切なポジションを取りながら、段階的に剣を振り、膝や翼に刃を通過させていく。
 どの程度、この剣が魔族を傷つけたか。それはもう、手の平に伝わる皮膚感覚で把握可能だ。
 そして、そうやって抵抗力をそぎ落とし、逃げも反撃もさせないためのダメージを一匹ずつに与えてから、あとはトドメを刺せばいい。
 これしきの魔族を死体に変えるのは、もう難しいことでも何でもない。
 そんなことよりもグイーネの意識は、その手で救った命にあった。
 荷台の中には、荷物の扱いで拘束されている女性達がいるはずだ。
「あら、怪我はないようね」
 布の扉を持ち上げて、そこには五人の少女が縄に巻かれていた。それぞれ怯え、涙や絶望を顔に浮かべている少女達は、恐怖で神経が過敏になって、グイーネの優しい表情を見てさえ震えていた。
 もう何人も助けたのだ。
 当然、この手の少女の扱いも知っている。
「大丈夫よ。あなた達は助かったの。あなた達を攫おうとした魔族はいなくなったわ」
 優しく、優しく語りかけ、一人ずつ安心させ、恐怖に敏感な状態を和らげる。あとはいつものように、まだ魔族には嗅ぎ付けられていない隠れ家に連れて行き、そこで彼女達を落ち着かせてやるだけだ。
 それにしても――。
 五人の中には、まだ十歳にも満たないであろう女児さえいた。
(あんな小さな子にさえ、産場での苦痛を与えるつもりだったのかしら)
 多くの女性が産場へ行くことを阻止してきたグイーネだ。産場に送られたが最後、彼女達はどのような運命を辿り、どのように死んでいくのかも知っている。大きく膨らむ腹の中から、生まれて来るのは人類の敵となる恐怖の象徴。
 同じ女だからこそ、グイーネの想像はより実感を伴う。
 決して祝福できない命が育ち、生まれてくるというのは、これから人を殺すことが確定している犯罪者の増加に加担している気分になる。それを生む機械として扱われ、人間としては扱われない屈辱も、グイーネには大いに想像できた。
 情報によれば、いずれ人類解放軍が動き出す。
 今の自分や仲間達にできるのは、小さな反乱活動を繰り返し、こうやって少しでも敵の兵力が増えないようにするだけだ。
(ゲオルイース……)
 ふと、別れたきりの親友に想いを馳せる。
(あなたならきっと来る。信じているわよ。だから、その時は――)
 グイーネは思い返した。
 あの別れ際、ゲオルイースが放った言葉は、今でもグイーネの心に刺さっている。そうだ、あの子はそういう子だ。今頃はできる限りの努力をして、一日でも早く力をつけ、ボヘロスを解放しようと全力を尽くしている。
(私は解放するべきボヘロスが滅ばないよう最後まで抗う。だから――)
 その時は、一緒に戦おう。
 グイーネは待っていた。
 ずっとずっと、ゲオルイースを待っていた。

     ***

 昔の思い出の一つには、ゲオルイースがお化けを怖がったものがある。家の周りに幽霊がいるらしいというデタラメをどこで聞かされ、どうやって信じてしまったのか。怪しい物音を聞いて、気配を感じてしまったと、怯えてやまないゲオルイースは、グイーネの元まで必死に駆けつけてきたものだ。
「グイーネ! グイーネェ!」
 人が寝ているベッドの前まで、大声で泣き喚く。
「うるさいわねぇ、何時だと思っているのよ……」
「おおおおおおおばけ! 出た! 出たんだ!」
「はいはい」
「本当なんだ! 見たんだぞ! 顔が青くて、髪が長くて!」
「髪なら私も長いわよ?」
「ち、違う! 私が見たのは! だから、その――黒髪で! それで――」
 ゲオルイースは本当に懸命に言葉を尽くし、とにかく幽霊を見たのだと、グイーネに信じてもらおうと必死でいた。
 眠いところを起こされて、こんな時間に何なのだと思ったが、涙まで流しているゲオルイースが可愛いというか可哀想というか。そのうちに、もうしょうがないな、という気になってきて、最後の最後でグイーネは言うのだ。
「一緒に寝る?」
「ほ、本当か? グイーネ!」
 まるで命の恩人か、それとも女神を見つめる顔まで浮かべるゲオルイースだ。
「よしよし、こっちに来なさいな。ほーら、よしよーし」
「あぁっ、グイーネェ……!」
 もう、母親に甘える子供かとさえ思った。
 けれど、温かくて、ゲオルイースの体温を感じていると、何だかグイーネ自身も安らいできて、結局は気持ちよく眠れたと思う。
 それから、かけっこで腰のまがった老人に負けたこともあっただろうか。
 あれはもう、なんといったものか。
 一緒にご飯を食べて、一緒に出かけて、他にも色々――。
 たくさんの思い出の中には、こんな戦争でもなければ気にも留めなかったであろう、小さな小さな出来事までたくさんのものが浮かんできた。
 だが、もっともよく覚えているのは――。

 ――三年前の別れの時だ。

 グイーネェェェ!
 私は必ず戻って来るからな!
 必ず! 絶対に!

 あの、約束。
 千年に一度という周期を無視して、言い伝えよりも早く現れた魔族達は、その圧倒的な攻勢により、たちまち人類を追い詰めていた。二人の故郷も例外ではなく、生まれ故郷に残って魔族と戦う者達と、避難のために故郷を離れる者達へと、人々は分かれてしまった。
 ボヘロスに残って戦うことを決めたグイーネに対して、ゲオルイースは避難の側だった。
 まあ、仕方がない。
 運動神経も悪ければ、お化けも怖いようなゲオルイースでは、残ったところで戦力にならずに終わりだろう。
 けれど、去り際に誓いを立ててくれたのだ。
 必ず、故郷を救いに戻って来ると。

「待ってるわよ! ゲオルイース!」

 グイーネも、そう返した。
 そうやってゲオルイースを見送った。

     ***

 ゲオルイースは必ず来る。
 だから、私も――。

 戦って、戦って、戦い抜いた。
 信じているものがあるグイーネは、それを心の支えと変え、いつしか救世主とさえ呼ばれるまでに成長していた。
 しかし、それでも魔族は強かった。
 百人で作戦に取り掛かり、無事に帰ることができたのが五十人だった。五十人が三十人、三十人が十五人へと、戦える人間の数は減りこそすれ、増えることなどない。苦しい現状の中で敵の数だけは無情なまでに増えていた。
 洗脳兵だ。
 魔族による洗脳を解く術はなく、また死んだ人間が魔族との融合で蘇り、その記憶や身体能力を魔族の都合に合わせて利用させることさえあった。
 仲間達の雰囲気も、明らかに暗い方向へ進んでいる。
 手練れであった戦士も、戦いの最中に利き腕を失って、もはや戦力とはなれずに戦線を離脱している。目を潰された者もいれば、片足を持っていかれた者もいて、少し隠れ家のまわりを歩けば、そこには包帯を巻いた人間しかいなかった。
 ある日、洗脳兵の矢からグイーネを庇った男がいた。
 迂闊だった。私のせいで!
 戦慄したグイーネは、すぐに手当てを試みるが、その刺さった位置は心臓だった。
「お嬢ちゃん……あとは……たの……む…………」
 誰かが看取ってやれただけ、彼はまだ幸せな死に方だったのかもしれない。けれど遺体はどこかに隠すか、火葬にしてやらないと、魔族は死体すら利用する。
 日常的に仲間が減った。
 実力を信頼していた相手が、グイーネをわかってくれていた理解者が、戦場で仲間の手当てに奔走してくれていた医療班の面々が、当たり前のように消えていった。
(どんどん減っていく。最後まで失っていくしかないのかしら……)
 気持ちが暗くなったとき、グイーネが自分を奮い立たせるために思い返しているものは、あのゲオルイースがしてくれた約束だ。
(ゲオルイース。あなたは今、どこまで……)
 どんなに時間がかかってもいい。
 それまで、その時まで、せめてボヘロスを維持できれば――。

     ***

 グイーネの戦いは、その日で終わった。
 襲撃を仕掛けた馬車から、現れたのは三体もの残滓であった。一体ですら強すぎる魔族を三体まとめて相手取るなど、グイーネは咄嗟の判断力で逃げ出したが、残滓が相手では逃げ切ることさえ不可能だった。
 あえなく捕まり、その後は……。

 守りたい――守りたい――守りたいカラ――。

 グイーネはもう、普通の状態ではなくなっていた。
 どうせ全ての人類を殺すに違いない魔族だが、グイーネの出方一つで、親族や仲間達の死に方が変わるという。仲間同士で殺し合いをさせ、治しては殺し合わせ、治しては殺し合わせ、それが実現した場合の幻術を延々と、時間をかけて見せつけられた。
 人間狩りをやらされて、守ってきた数以上の人々を魔族達に売り渡した。
 女としての肉体も、裏切りの王族に売り渡された。
 彼らは魔族と繋がっていたのだ。
 自分達は少しでもボヘロスを維持しようと、何人もの仲間を失いながら戦ったのに、そんな事情など知らないように、魔族に媚を売って土地も人民も差し出して、その代わり少しだけ甘い汁を吸うなどという実態を見せつけられた。
 そんな低俗な連中の精液で全身を汚された。
 人間を狩り、さもなくば性処理道具として働く。
 当然、魔族への奉仕もやらされた。男根を差し出されれば、黙って咥えなくてはならず、その動きが少しでも気に入らないと、真面目にやれと殴られた。それでもあの見せられた幻を現実にしないため、グイーネは従属しきった。
 生気が抜け、薄ぼんやりとした頭の中で、少しだけ思うことがあった。
(まだなの……? 人類解放軍は……)
 ゲオルイースがくれば、きっと。
 しかし、魔族が言うのは、人類解放軍が動き出したら、その面前にグイーネを突き出し、そこで処女を使うらしい。自分の存在が、士気を削ぐための道具に使われる。はい、ありがとうございますと、それに対してグイーネは感謝の言葉を述べなくてはならなかった。

     ***

 そのとき、自分の刃が己に向き、心臓を一突きで貫いていた。
 もし、自分が魔族の洗脳にかかったら、この手で誰かを殺してしまう。救世主とまで呼ばれた自分が人類の敵になったら、それはどれほどの脅威か。だからこそ、この手が他者を殺めようとした時に発動して、自害へ導く魂式を作ったのだ。
 だが、それも無意味に終わる。
 急速に命が薄れていき、魂がこの世を離れていく直前に聞いたのは、あーあ、と、魔族達がいかにも残念そうに、グイーネのことを嘲笑う声だった。人質となった親族達のため、ここまで従ってきたというのに、約束通りに人質は全員殺すらしい。
 結局、何も守れず……。

 あれ……わたし……いきている…………。

 消えるはずの命が、少しのあいだだけ延命されたのは、魔族達がかけた蘇生術と、さらには石化の魔法によるものだ。
 身動きが取れず、磔にされているグイーネの瞳に映るのは、他でもない親族達だ。
 殺されている。
 八つ裂きにされ、首を落とされ、ありとあらゆる残酷な死に方と共に、血の香りと絶叫がグイーネに届いてくる。

 みんな……! みんな……!

 石化された肉体は、指の一本ですら動いてはくれない。
 ただ、見ていることしかできなくて、最後には何も考えたくなくなった。何も見えず、何も聞こえないままでいたい。そんな風にだんだん無に、心の脈が止まったグイーネの耳には、本当におぼろげなものだけが届いていた。
(ゲオルイースは……来なかった……)
 グイーネの心は、ここで死んだ。

     ***

「……なんだこいつは? 全く動かねぇが、生きてるのか?」
「救世主とかいってもてはやされた人間だ。まぁ、すでに精神は死んでるよ。最後まで守っていた親族達を目の前で潰されんだ。残滓様は抜け殻になったこいつを使って、奴隷どもの反抗心を挫く見世物にしたいらしい」

 魔族の声が聞こえて来ても、グイーネは何も反応しない。ただ心を止め、何も感じまい何も思うまいと、心の死を保っているだけだった。

「あ、お前、勝手に壊すなよ。残滓様の命令で磔にされてる女だぞ?」
「全部壊したわけじゃねえだろうが! 元救世主ってのがわかればいいんだろう? 問題ねえよ……コノ!」

 やがて、消える。
 蘇生術によって延命され、少しは寿命の延びた命も……。

 グイーネは安眠につきたかった。
 そうすれば、本当の意味で何も感じることはなくなるから――。


     ***


 あれ?
 どうして……。

 死んだはずの自分の体が、どういうわけか息を吹き返していることに気がついた。
 まずは困惑した。
 今まで悪夢でも見ていたのか、今が本当の現実なのか。それとも、この今の自分が夢かも判断できず、オロオロしていたグイーネの脳裏には、一つの邪悪な声が響いた。

 ――ウシナエ!

(何ッ!? この声は一体! この邪悪は一体!?)

 ――ウシナエ! ウシナエ! ウシナエ!

(ざ、残滓――そんな……私に……)

 長い戦争の中で、グイーネは嫌というほど知っていた。
 死んだ人間が蘇る方法は、魔族との融合だけだ。そうやって生き返った人間は、魔族の意志で記憶や身体能力を都合のいいように利用され、親族だった人間を騙し、殺すために利用されていく。

 ……だから生き返ったんだ。
 だから、まだ死なせてさえくれないんだ……。

 それは絶望以外の何者でもない。
 絶望はまだ続くのだと、地獄の道のりはまだ長いことを宣告された絶望にグイーネの心は蝕まれた。 

     ***

 それから、残滓ロビィの手によって散々に見せつけられた。
 魔族との戦争を追え、平和そのものとなった世界に生きる楽しそうな人々の笑顔に、幸せそうな生活の数々を嫌というほど目の当たりにした。
 この目が、この肉体が、大陸中を渡り歩いて――。

(やってくれたのね。ゲオルイース。私はそれだけでも……)

 そうやって安心する心の裏には、もっと邪悪なものが渦巻いているのだと、グイーネは自分でも気づいていた。

 ウシナエ! ウシナエ! ウシナエ!

 平和な世界に対する安心や安堵といった感情は、ただの一瞬にして暗闇に飲み込まれた。その代わりに増幅してやまないのが、世界の全てを憎もうとする黒い感情。それがロビィの声なのか、それとも自分の本心なのか。それがグイーネ自身にもわからなくなっていた。
 自分はあんな目に遭った。
 なのに、なのに、ここにいる人達は――どうしてこんなに、どうしてあいつらが幸せで、私は失うだけだった。

(違う! そんなことを思ってはいけない!)

 ――ゲオルイースはお前を忘れているぞ!

(……え?)

 グイーネが次に見せつけられたのは、親友の記録を受け入れられず、記憶に蓋をしてしまったゲオルイースの幸せな日常だった。
 ゲオルイースが私を忘れている?
 じゃあ、あの時の言葉は何だったのか。約束を守りに来てくれたのでは――違う。そんな風雨に考えるものではない。大事だった人がもういないなんて、誰だって受け入れられない。
 グイーネは懸命に拒んでいた。
 きっと、残滓ロビィなど関係なく、自分はあんな目に遭ったのに他の奴らは――そんな黒い感情が全くわかないわけがない。そう思う心が自分のどこかに存在している。けれど、それを嵐のように吹き荒れさせてはいけない。
 もっと早く人類が自由になっていたなら、自分もこの平和の中にいたはずなのに。
 いや、違う。
 そう考えてはいけない。
 拒まなければ、考えるのだ。
 だったら、ゲオルイースはどうして人類解放軍の総司令にまで上り詰めた。故郷のためにそこまで努力してくれた。あの子の頑張りは一体どうなる。それさえも否定していいのか。いいわけがない。

(そうよ! ゲオルイースは来てくれたの! それだけでもいいじゃない!)

 噴き出しそうなものを手で押さえ、まるで力で封じ込めようとしているようなグイーネは、懸命に自分を抑えていた。

 ――チガウ! アイツモ、ウシナウベキダ!

 グイーネの中にあった善意と、良識が止まった。
 幻を見たからだった。
 夢の世界にでも放り込まれてしまったように、裏切りの王族達に弄ばれ、人類のために戦ってきたはずの末路を嫌というほどに味わった。
 そう、世界は平和になった。
 じゃあ、あの王族達は?
 あんな奴らがいなくて、彼らがもっと平和のために尽力していれば、人類解放軍の動きも早まり、グイーネも彼らと合流を果たすという、結局は成しえなかった夢物語が実現していたはずではないのか。
 足を引っ張った王族達がいるせいで、自分は絶望だけを味わって、今の平和な世界を生きることはできなかった。この手で魔族に売り渡す羽目になった命も、守りきれずに殺されていった親族達も、一人でも多くが生きて平和な世の中に暮らせたはずだ。
 グイーネは思い出す。
 捕まってから初めに行った性行為は、残滓トーデイラに連れて行かれた先のボヘロス城で、裏切りの王に口奉仕を強要された時である。前線で戦っていたグイーネにとって、勝ち目のない魔族相手に土地も人民も差し出すべきだという王族の言葉は、よしんばジョークであってもキツすぎるものがあった。
 その精液を飲まされた体験と、他の王族達にも白濁で全身を穢されたトラウマは、グイーネに眠る黒い感情を引きずり出すにはうってつけすぎていた。
 あいつらさえいなければ、彼らがああでなければ――。
 無意味な空想なのかもしれないが、グイーネや他のボヘロスの人間達は、つまり魔族と戦おうとすらしなかった連中の煽りを受けて、人類勝利の日に立ち会うことをできなくされた。
 だいたい、ああやって魔族と通じていた以上、グイーネが残滓三体と鉢合わせることになったことさえ、裏切り者が足を引っ張ったせいではないのか。そして、戦ったはずの人間を辱め、それで興奮する人間なら、情報を売ることくらい十分にありえるはずだと思えてならなかった。
 もちろんそんな証拠はないが、一度疑惑が浮かんだらキリがない。
 人類解放軍の動きに時間がかかっていたのも、大陸各所で人間が次々討たれたのも、何もかもの裏切りの王族が絡んでいるように思えてきて、あれもこれもと悪い想像ばかりが膨らんでならなかった。
 こうして人類は勝てたじゃないか。
 魔族に媚びる必要なんて、初めから無かったのだ。
 それなのに、それなのに……。

 わかっているわよ! こんな感情に飲まれてはいけない! 
 でも――。

 生きてゲオルイースに会いたかった!
 
 もう、その瞬間だった。
 まるで、見えない手がグイーネの脳を手掴みして、深いところへ引きずり込もうとしてくるかのように、グイーネの良心は黒々とした奥底へと飲み込まれた。天に向かって、心の手を必死に伸ばすが、青空はどこまでも遠ざかるばかりであった。


 残滓ロビィは、こうして大王を手に入れた。


     ***


 まただ。まだ、続いているのね……。
 過去の私は、守ってきた数よりもたくさんの命を魔族達に引き渡した。
 今では私は大王となり、罪もない王族達を陥れ、冤罪によって次々に監獄の中へと放り込んでいる。たとえば殺害の罪を被せるため、まずは私が誰かを殺す。それは神父であったり貴族であったり、どこか身分のいい人。
 駄目、やってはいけない。
 そんな風に思ってはみるけれど、刃を突き立てようと動く私の腕は止まらない。心のどこかで叫んだり、自分を抑えてみようとしたところで、もう誰かを守れるわけでも、王族達の冤罪をたった一つ減らせるわけでもない。
 ……どうしてかしら?
 私が、まだ人間狩りに加担しているだなんて。
 こんなことに私が使われるくらいなら、本当に死んでしまった方がマシじゃない。そうよ。死ぬための魂式を用意していたはずじゃない。なのに、自分の死の行方ですら、こうやって好きにはさせてくれないの……!
 私という存在が、もう私のものではないんだわ。
 この頭の中にはゲオルイースを陥れる計画があるけれど、何千何百回と制止をかけても、もう私は止まらない。
 
「お前は戦争中に人類を裏切っていただろォ?」

 ああ、私が笑っている。
 ……あるんだ。
 当時の裏切り者を抹殺して、それに愉悦を感じるような心が私の中に――こんなことをしても過去が変わってくれるわけではないのに、そんな理性的な言葉を私は聞いてくれはしない。

「だがよかったなァ? あの時の罪はここで償え! しかもお前が死ぬことで、お前を殺した罪は他のゴミどもが背負うことになる。ははっ、冤罪? あの戦争当時、人間を売り渡していた連中が正しく裁かれているだけだよなァ!」

 そうだ。裁かれて欲しいんだ。
 私が止まらない! どうやっても! どう足掻いても!
 きっと、残滓ロビィのせいだけじゃない! ロビィは私の心を増幅してる! 私の心に少しでも黒いものがあるせいで、付け入る隙を与えてしまって――どうすれば、どうやったら私は止まることができるの!
 どうやったら! どうすれば!

「ははは! ハッハッハッハッハ!」

 こんな魔族と変わらない笑い声を私が上げているなんて、もう私なのかロビィなのかもわからない! 私自身かもしれない! 私の心の中に今の大王がいるのかもしれない! あの場で死んだはずの私にとって、私には味わえなかった平和な世界が羨ましくて、妬ましくてたまらないから!

 ………………
 …………
 ……

 残滓ロビィは精神世界を渡り歩く。
 だから、その一瞬でグイーネは気づいたのだ。

 ゲオルイースと繋がった。

 お願い! あなたなら大王を止められる!
 もうあなたしかいないの!
 ゲオルイース!


     ***


 そして、だからグイーネは知ってしまった。
 ゲオルイースが監獄で心を取り戻し、脱獄を決意したのは、スティアラとの出会いがあったからだと――。
 ゲオルイースはグイーネの助力に気づいていない。
 いや、そもそも助けてすらいないのだ。
 まず貶めたのがグイーネだ。自分が大王にさえならなければ、こんな監獄の実態が生まれることさえなかったのだ。たとえ全てがロビィのせいでも、グイーネの名前と肉体で重ねられた罪の数々は、きっとグイーネのものなのだ。
 ならばもう、自分はせいぜい夢の中の登場人物でいるしかない。
 そうだ。夢にでも馴染んでいよう。
 そうすれば、たとえ夢でも、ゲオルイースとの生きた再会を果たして、共に戦うことができるのだから――。

 夢に浸ったグイーネは思う。
 こうして、残滓を相手に戦える日が来るなんて――と。


     ***


 男が見張り、女が就寝。
 交代制の休憩で、二人に順番がまわってから、共に布団に潜るグイーネは、今に隣でまぶたを閉じるゲオルイースを意識する。こうして残滓を倒していき、洗脳兵となった伝説の勇者クダンとの戦いも乗り越えて、あとはトーデイラとロビィを残すのみとなっているのが、今でもどこか信じられない。
 ゲオルイースやその仲間がいなかった頃は、もっと厳しかった。人類解放軍が動き出すまで、日に日に消耗していくだけの、いつ果てるとも知れない戦いの中で、ようやく合流を果たせたことにどれほど安堵したことか。
「……すまなかったな」
 まだ眠れないのか、ゲオルイースの静かな声が、そっとグイーネの耳に届いた。
「あら、どうしたのかしら?」
「もっと早くここに来られれば、ボヘロスの惨状もここまではなかったはずなんだ」
 まるで懺悔のようだ。
 誰だって考えることだろう。もっと早く、もっと順序良く、力を身に付け、準備を整え、こうして戦いに出られていれば――しかし、魔族は強すぎた。来たくても、簡単には来られなかったであろうことくらい、戦ってきたグイーネには簡単に想像できる。
「その話はしたばかりでしょう?」
「そう、だったかな。ははっ、そういえばグイーネの隠れ家で話したか」
「本当よ。本当に今よりもっと早ければ、ゲオルイースは何歳で総司令? あーあ、やだやだ怖い怖い。その方がゾッとするわ」
「けど、できるものなら、何歳だろうと力をつけてやりたかった……!」
 静かだったゲオルイースの声は、しだいに感情的になっていた。当時の後悔が、ありとあらゆる想いが蘇り、グイーネの脳裏にさえも、親友と別れることになったあの日が色濃くよぎり、だんだんと胸が締め付けられる。
「自分だけ逃げるかのような気持ちがしたんだ……! ボヘロスを去ってから、本当は自分も残って戦っていればって……! あのときの私には何の力もなかったけど、それでも何度もそんなことを考えた……!」
「……あ、あれ?」
 急に涙が出て、グイーネはゲオルイースに背中を向けた。
「どうした? グイーネ」
「い、いえ……。何でもないわ……」
 既に一度は言ったことだ。
 あの荒らされてしまった隠れ家で、その惨状を見て無念を語るゲオルイースに対して、今もあの時も、グイーネは同じことを思うのだ。

「いま来てくれただけで十分よ」

 親友のことだ。
 故郷を思い続けてくれたゲオルイースが、どれだけの努力を重ねて、そして本当に人類解放軍総司令にまで上り詰めてしまったか。それくらいの想像ができないグイーネではない。離れ離れになっていても、その心にはずっとボヘロスがあり、グイーネがいたと、それがわかっただけで満足だ。




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